はやぶさNo.251

- ページ: 20
- は やぶ さ
2024.9
No.251
相模原法人会広報誌 隔月刊
令和 年 月発行
発行/公益社団法人 相模原法人会
〒252 0
- 236 神奈川県相模原市中央区富士見6 発行責任者/会長 新倉 裕
編集責任者 /広報委員長 義澤 彰
印刷/株式会社 P栄文舎
TEL/042 7
- 55 3
- 027
6
9
さがみはら
歴 史
探訪録
File.02
津
久井城の築城は、鎌倉時代に三浦半島一帯に
域統括拠点としての機能を終えることとなります。
勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏に
在城址には家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが
よると伝承されていますが、その詳細は明らかでは
現
残っており、主要部分が県立津久井湖城山公
戦 国 時 代の山 城
津久井城
﹁
ありません。その痕跡が明らかになるのは、15世紀末
園として、ハイキングコースも整備されています。
頃です。戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16
津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国
世紀中ごろまでには、相模・武蔵を領国とする戦国大
に接する相模国の西北部に位置しています。そして
名に発展しました。そしてこの広大な領国を経営し、
八王子から厚木・伊勢原・古代東海道を結ぶ八王子道
敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領
と、江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西
を単位とする支配体制を作りました。当時の津久井
に横断して甲州街道に達する津久井往還に近く、古
地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており、
来重要な水運のルートであった相模川が眼前を流れ
津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重
ていることなどから、交通の要衝の地でもありまし
要な役割を果たしていました。
た。また、津久井地区はその豊かな山林資源から、経
天
正18( 1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、
済的に重要な地域としても認識されていました。
北条方の関東の諸城も前後して落城しまし
た。津久井城も徳川勢の本
頂上の築井古城記碑↓
多忠勝、平岩親吉らに攻め
られ、落城したと伝えられ
ます。落城の際に大規模な
戦闘はなかったようです。
落城後は徳川氏の直轄領に
﹂跡
なり麓に陣屋が置かれ、代
官が政務を執っていまし
た。陣屋は寛文4(1664)年に
廃止され、そこで城山は地
13
津久井城俯瞰図↑
(作図:守屋 浩之 氏)
住所:県立津久井湖城山公園 〒252-0153 神奈川県相模原市緑区根小屋
戦国時代の山城「津久井城」跡である城山と城山ダム両岸一帯に広がる、自然と歴史の宝庫です
16
20
相模原
広報誌
No.
隔
- ▲TOP